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伊賀上野を歩く [小旅行]

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伊賀上野城下の入り口、鍵屋の辻にある道標です。
右伊勢道、左奈良道と刻まれています。
大和街道は、東海道の関宿から分岐し、伊賀盆地を経て奈良そして京、大阪につながります。
またここから伊勢にもつながっていたことも道標で分かります。
壬申の乱では大海皇子がここを通り、源義経が京の木曽義仲を討つ際にもここを経過しました。
伊賀盆地は戦略的要地であった訳ですね。
関ケ原の戦後、彦根と伊賀上野をともに重視することが家康の戦略でした。
司馬遼太郎の文章を引用します。
『徳川家康が大阪城の豊臣秀頼を攻める計画をたてたとき、万一敗北した場合の手当てもしておいた。その場合、嫡子の秀忠を近江彦根城まで後退させ、自分はこの伊賀上野城に後退して、攻撃再開の準備をするつもりだった。』(街道をゆく7「甲賀と伊賀のみち」)
先日は彦根城を見たので、伊賀上野を訪問しないのは片手落ちと思いたち、伊賀上野に来ています。
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伊賀上野城は、藤堂高虎が築いています。
江戸期を通じて、天守台に天守閣は存在せず、この天守閣は昭和10年の建築物です。
その経緯について司馬は「街道をゆく」で、以下のように書いています。
『完成したのは慶長17年9月2日で、大阪冬ノ陣の2年前である。ところが落成と同時に、この天守閣はとりこわされた。高虎が密命を出してそれをやらせた。きのうまで建てることに懸命になっていた棟梁や大工たちが、この日から潰し仕事に忙殺された。理由は聞かされなかった。藤堂家の家臣も知らず、従って後世のわれわれには、なぜ出来たばかりのものをこわしたのかという資料がのこされていない。』
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しかし、現地でもらったリーフレットでは次のように書いてありました。
『慶長17年、竣工直前の五層の大天守は暴風のため倒壊。その後・・・大坂方の滅亡と、幕府の城普請禁止策とにより、天守が再建されなかった』
何か、司馬さん違いません?
おそらくお城で出している解説のほうが史実でしょう。
「街道をゆく(甲賀、伊賀のみち)」では、他にも現存天守閣の完成を昭和12年としていたり、ちょっと事実誤認があるようです。
司馬遼太郎にしては珍しいと思います。
やっぱり、何でも鵜呑みはいけなくて、自ら確認する姿勢が大切なのですね。
写真は高石垣です。
その高さは日本一、二と言われるそうです。
この城の堅固さを象徴しています。
上から覗くと、その高さに背筋が寒くなりました。
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街なかを散策しました。
落ち着いたたたずまいの城下町です。
お城は城下町ごと、服部川と木津川の河岸段丘上にのっかっています。
JR伊賀上野駅から歩いたのですが、それを実感しました。
登りがきつかったです。
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上野天神社も風格がある天神様でした。
だんじり会館という施設があり、山車の展示があり、秋のお祭りの映像も見ることができました。
400年の伝統があるというお祭りだそうで、見ごたえがありました。
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冒頭写真の鍵屋の辻にある数馬茶屋。
昔の街道筋の茶店を彷彿とさせる佇まいです。
あいにくのお休みでした。
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「わかや」というお店の田楽を食べるつもりでしたが、ここもお休みでした。
急きょ選んだ店はうどん屋「九庵」です。
写真の味噌カレーうどんを食べました。
旨いうどんで、拾い物をしたような気分になれました。
新装【ワイド版】 街道をゆく (7) 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか

新装【ワイド版】 街道をゆく (7) 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2005/06/16
  • メディア: 単行本
【教訓】信頼できる人であっても、その言説を鵜呑みにしてはいけない。自分で確認すること。できれば現地へ足を運んで・・・、
【土産】桔梗屋織居の小豆とうふ。上品な味で、旨かった。

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