彦根散歩 [小旅行]
東海道本線で彦根まで出かけました。
大垣を過ぎると列車は関ケ原に近づきます。
大垣あたりでは土砂降りの雨でしたが、関ケ原駅では雨が上がっていました。
関ケ原、思ったより広くない。
新幹線で通り過ぎる時はあまり気にならないのですが、
東西合わせて十数万の軍勢が、戦ったローケーションとしては狭いのではないか。
・・・と、ホームに停車した電車の窓から眺めました。
写真は関ケ原合戦図屏風です。
赤備えの井伊直政の軍勢が見られます。
井伊の軍勢が前進し、西軍の宇喜多隊に鉄砲を撃ちかけ戦が始まりました。
前夜降り続いた雨が上がり、ようやく霧が晴れたとき、9月15日午前8時頃といいます。
私の乗った列車は関ケ原駅を8時26分に発車しました。
窓の外に鬨の声が聞こえたのは気のせいでしょうか。
彦根到着です。
井伊の軍勢は関ケ原での戦いのあと、休む間もなく、三成の居城佐和山を攻めました。
戦後、井伊家は佐和山に封ぜられます。
その佐和山城跡は彦根駅から近くに望めます。
お城の天秤櫓の前まで来ています。
登りがつらい・・・。
西国の抑えとして彦根城が築かれますが、直政は関ケ原の鉄砲傷がもとで、2年後に没しています。
ですから直政は彦根城の完成を見ていません。
望楼型の天守閣が優雅な姿を見せています。
その優雅な姿について司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で次のように書いています。
『その夜の湖水を中景にして、彦根城の天守閣が証明をうけて白々とうかんでいるのを見たとき、ときめくほどに感動した。』
そう、その均整に富んだ姿にはときめきを感じます。
また、この天守が残された経緯について以下のように記しています。
『維新のとき、太政官によって多くの城がこぼたれたが、伝承によると、明治天皇がこの城を見、その典雅さに感じ入ってぜひ残せということで残されたともいわれている。』
歴史学の学徒である私としては、司馬の記述を史料に基づき裏付けをしておく必要性を感じました。
まず、明治天皇は明治11年10月の北陸巡幸の際に彦根城を見ていることは事実です。
そのうえで、明治天皇の侍従長徳大寺実則が滋賀県令に宛てた手紙を見つけました。
『今般思し召しこれあり、旧彦根城郭、保存いたすべきむね、仰せいだされ候。ついては何分の儀、追ってその筋よりその県へお達しこれあるべく候えども、このむね内達におよび候なり。明治11年10月15日 内務卿徳大寺実則 滋賀県令籠手田安定殿』
司馬のいう彦根城が残された経緯は、その通りでした。
めでたし、めでたし。
写真は玄宮園から望む天守閣です。
お城を散策したあと、京橋口に続く街並みを散策しました。
お腹が減ってきましたので、大急ぎで駅前まで戻ります。
彦根到着時から目をつけていたのは、これです。
「近江ちゃんぽん」、滋賀県民のソウルフードと言われるそうです。
前々から気になっていた食べ物なのです。
2017-07-17 12:04
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