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2017夏③/寺町・本能寺 [京都散策]

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学食で朝飯を掻きこんで、さあ今日も授業を頑張るぞ・・・と
意気込んで講義に臨んだのですが、
2時限目、
「暴風警報が発令されましたので、今日は休講となります」との通知がありました。
一瞬「やったー」と思ったの条件反射でしょうか。
先日の台風5号が通過した日のことです。
よく考えれば、やったも、くそもないのです。
授業料を払っているのは自分なのですから。
とにかく、雨は降っていますが風はまだそれほどでもありません。
北大路のバス停から205番の市バスに乗り込んで四条河原町へ向かいました。
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高瀬川の畔、木屋町通りでタバコをふかしながら、散歩コースを思案しています。
雨は降ったり、止んだり、時折叩きつけるような雨脚となっています。
アーケードのある新京極、寺町通りを歩いてみることにしました。
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錦天満宮です。
新京極通りに面しているので、天候が悪いにも関わらず、結構にぎわっていました。
門前から西に向かう小路を進めば錦市場です。
京極通りの「京極」は平安京の条坊制の端っこ、「京の果て」の意味です。
かつては街はずれであったというわけですが、今は京都の中心です。
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雨のウィークディ、しかも台風接近中なので、人通りはそれほど多くありませんでした。
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通りを歩いていると、次から次へと寺院が現れます。
豊臣秀吉は聚楽第の建設と同時に、京都の都市改造を行っています。
平安京の都市プランでは東の果て京極通りのさらに東に、
洛中の寺を集め、寺町を造ったのもその一つです。
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三条通りを超えて、寺町通を北上すると、御池通りの手前に本能寺があります。
本能寺の変で焼けていますが、秀吉の京都改造にともない、ここに寺地を得て再建されています。
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本能寺の本堂です。
本堂の裏手に信長廟があります。
秀吉時代の地図を見ると、当時の本能寺の敷地は、御池通を超えて現在の京都市役所あたりまで及んでいました。
実はここの宝物館を見ることが目的でした。
ここに信長・秀吉・家康などそうそうたるメンバーの書状、朱印・黒印状が展示されています。
いま学んでいる古文書解読の力だめしにチャレンジです。
秀吉の寺領寄進状は朱印状となっていました。
家康の時代になって、その同じ寺領の安堵状もありました。こちらは黒印状です。
朱印は公式かつ重要な書類に、黒印は私信や雑務的文書などと使い分けていたようです。
本能寺が贈った屏風への信長からのお礼状を面白く見ました。
近世史の講義で、古文書読解の材料として使っている信長書状が、素麺2箱のお礼状でした。
信長はあちこちから進物を受け取り、いちいち礼状を書いていたことが分かります。
もっとも本文を書くのは祐筆です。
信長からの書状などが残っているところを見ると、
本能寺の変では、寺の全てが焼け落ちた訳ではないようですね。

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